始めに
ディック『高い城の男』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ドストエフスキー、ジョイス、プルーストの影響を受けたモダニズムバロック喜劇
最大の技術的影響を与えたのがヴァン=ヴォークトです。 ヴァン=ヴォークトのプロットが目まぐるしく展開し、論理よりも感覚的な驚きを優先するスタイルを、ディックは熱心に研究しました。
ディックは若い頃、純文学の作家を志していました。特にジョイス『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』に見られる意識の流れや複雑な言語感覚に心酔していました。またドストエフスキーの喜劇に刺激されました。
シアドア=スタージョンは人間性や共感を重視したSF作家です。 スタージョンはSFに愛や孤独、異質なものへの共感を持ち込みました。ディックの代表作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の根底にある共感こそが人間を定義するというテーマは、スタージョンの精神に近いものです。
ユングは作家ではありませんが、ディックの思想を語る上で外せません。ユングの集合的無意識や型(アーキタイプ)の概念は、ディックの作品に繰り返し登場します。
政治的信条は正反対に近い二人でしたが、ディックはハインラインを尊敬していました。
ディックは良くも悪くも天才タイプの作品で、モダニズム的手法を取り入れたSF作家にはハーラン=エリスンなどあんまりパッとしない才能も多いなか、圧倒的な筆力を持っていて文豪クラスのポテンシャルを秘めている作家です。本人に影響したドストエフスキー(『罪と罰』)、ジョイス(『ユリシーズ』)のモダニズム喜劇にも引けを取らない実力を持っています。また小島信夫、ナボコフ(『ロリータ』)、ピンチョン(『重力の虹』)にも匹敵するか上回っています。
現実の不確かさ
テーマは、私たちが現実だと思っているものは、本当に真実なのかという疑念です。 作中では、連合国が勝利した世界を描いた禁書『イナゴ身重く横たわる』が登場します。登場人物たちはこれをフィクションとして読みますが、読者にとってはそちらが史実です。物語の終盤で、自分たちの生きている世界こそが偽物なのではないかという感覚がキャラクターを襲います。現実は一つではなく、いくつもの層が重なっているというディック特有の不安定な現実感が描かれています。
美術商のチルダンや、偽造骨董品を作るフランクのエピソードを通じて、価値の正体を問いかけます。日本人の収集家たちは、アメリカの古いライターなどの本物に執着しますが、それは単なる思い込みに過ぎません。フランクが作った偽物の現代的なジュエリーの中に、特定の誰かが真の芸術性や精神性を見出す場面があります。これは、歴史的背景よりもいまここに宿る魂こそが本物であるという逆説的な提示です。
東洋神秘主義。全体主義
ディックはこの小説を執筆する際、実際に『易経』で占いを立ててプロットを決めたと言われています。登場人物たちも重要な決断を『易経』に委ねます。これは、個人の意志を超えた宇宙の大きな流れや目に見えない秩序を象徴しています。『易経』の根本は万物は流転するという考えです。ナチスの支配という強固に見える現実も、実は変化の一過程に過ぎないことが示唆されます。
ナチスという巨大な悪の組織の中でも、個々の役人は事務的に、あるいは家庭的な顔を持って悪を遂行します。恐ろしい計画が、まるでお役所仕事のように淡々と進められる恐怖。その一方で、ナチスの高官同士の権力闘争や、日本人官僚の田上信介が見せる良心の葛藤など、組織のラベルを剥がした後に残る個人の苦悩も描かれています。
物語世界
あらすじ
第二次世界大戦で日本とドイツが勝利してから15年後の1962年。かつてのアメリカ合衆国は3つに分割統治されています。西海岸(太平洋連邦)は日本の占領下で、比較的穏やかですが日本文化が浸透し、アメリカ人は二級市民です。東海岸(大ゲルマン帝国)はナチス・ドイツの占領下で、ユダヤ人の虐殺やアフリカの壊滅など、過激で冷酷な支配です。中立地帯(ロッキー山脈州)は両勢力の間に挟まれた緩衝地帯です。
この世界で、もし連合国が勝っていたらという物語を描いた禁書『イナゴ身重く横たわる』が密かに流行しており、その著者は高い城に住んでいると噂されています。
サンフランシスコ。ユダヤ人の血を隠して生きる職人フランクは、日本人に媚びる美術商チルダンに、自作の偽の骨董品を売りつけようとします。しかし、フランクは次第に本物の芸術(ジュエリー)を作りたいという情熱に目覚め、同時にナチスの捜査の手が彼に迫ります。
日本の貿易官・田上は、ドイツから来た謎の男ベインズと接触します。ベインズの正体はドイツの反体制工作員で、ドイツが同盟国である日本を核攻撃する計画のタンポポ作戦を阻止するため、日本の特務機関に情報を渡そうとしていました。田上は和平のために奔走し、あまりのストレスから一瞬だけ我々の現実(日本が負けた世界)を幻視します。
フランクの別居中の妻ジュリアナは、中立地帯でイタリア人のトラック運転手ジョーと出会い、共に『イナゴ身重く横たわる』の著者アベンゼン(高い城の男)に会いに行こうとします。しかし、ジョーの正体はアベンゼンを暗殺するために送り込まれたナチスの刺客でした。彼女は土壇場でジョーを殺害し、一人で「高い城」へと向かいます。
ついにアベンゼンと対面したジュリアナは、なぜ彼がこの本を書いたのか、そして『易経』が何を告げているのかを問い詰めます。そこで明かされるのは、この枢軸国が勝った世界こそが偽物であり、実際には連合国が勝っていて本の内容が真実であるという驚愕の事実です。登場人物たちが生きている現実の土台が崩れ去るところで物語は幕を閉じます。




コメント