始めに
ジュリアン=バーンズ『10 1/2章で書かれた世界の歴史』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
バーンズの作家性
『フローベールの鸚鵡』でも明らかなように、バーンズにとってフローベールは小説家としての理想です。言語に対する妥協のない厳格さ、芸術至上主義、客観的な文体、皮肉を継承します。
バーンズは、F.M.フォードの『良き兵士』を称賛しています。信頼できない語り手の手法を継承し、記憶の曖昧さなどを描きます。ナボコフからは言語的遊戯を継承します。
バーンズはオーウェルのエッセイストとしての側面から刺激を受けました。他にモーリアック、ドーデーなどからの影響があります。
歴史の不確かさ
『10 1/2章で書かれた世界の歴史』はノアの箱舟から現代の宇宙旅行まで、時代も文体もバラバラな短編が集まった、非常に実験的で野心的な連作小説です。作品を貫く主要なテーマは、不確かな歴史の中で何を信じて生きるべきという問いに集約されます。歴史とは、勝者や権力者によって捏造された物語に過ぎないというポストモダン的な懐疑主義があります。
第1章では、ノアの箱舟に密航した木喰い虫が語り手となり、聖書の記述とは全く異なる、ノア一家の身勝手で残酷な本性を暴きます。公式な記録から漏れた持たざる者や虫の視点を通すことで、私たちが信じている歴史の真実を揺さぶります。
全編を通して、「船(方舟)」と、そこでの「生き残り」というモチーフが反復されます。テロリストに占拠された豪華客船、沈没したメデューズ号の筏、さらには天国という名の究極の船など。人間は常に何かに乗り込み、災厄から逃れようとしますが、その過程で露呈する人間のエゴイズムや滑稽さが描かれます。
第5章では、テオドール=ジェリコーの名画『メデューズ号の筏』が徹底的に分析されます。実際に起きた凄惨な人肉食の事件が、いかにして美しい芸術作品へと昇華されたのかが描かれます。
タイトルの「1/2章」にあたる、小説の途中に挿入されたエッセイ的な断章が、最も重要なパートです。バーンズはここで、「歴史は客観的ではなく、しばしば嘘をつく。だからこそ、私たちは『愛』という、非合理的で客観性のないものに縋るしかない」と説きます。
愛もまた人を裏切るかもしれませんが、歴史という冷酷で無意味な流れの中で、個人の人生に意味を与えてくれる唯一の防波堤として描かれています。
物語世界
あらすじ
第1章 密航者 (The Stowaway):語り手は、ノアの方舟に密航した木喰い虫です。聖書の美談を真っ向から否定し、ノアが実は大酒飲みの乱暴者だったこと、方舟の中は不衛生で、絶滅した動物の多くはノア一家が食べてしまったことなど、真実の歴史を語ります。
第2章 訪問者 (The Visitors):現代。歴史家フランクリン=ヒューズが乗った豪華客船が、アラブ人テロリストにジャックされます。テロリストは乗客を国籍や思想で選別し、処刑を始めます。歴史の加害者と被害者が入れ替わる不条理な恐怖が描かれます。
第3章 宗教戦争 (The Religious Wars):16世紀、フランスのブザンソン。教会の柱を食い荒らした木喰い虫が被告として裁判にかけられます。人間側は神の秩序を乱したと訴え、弁護側は虫も神の創造物であると反論します。
第4章生存者 (The Survivor):近未来か、あるいは妄想か。核戦争の危機を感じた女性キャスが、猫を連れて小さなボートで海へ逃げ出します。彼女は男たちが世界を滅ぼしたと絶望していますが、最後にはこれが彼女の精神疾患による被害妄想なのか、あるいは現実なのかが曖昧になっていきます。
第5章 難破 (Shipwreck):1816年の「メデューズ号の難破」事件を題材にしたエッセイ的批評です。飢えと絶望による人肉食まで起きた地獄絵図が、なぜジェリコーの絵画として美しい芸術になり得たのか。 悲劇を芸術に変換する人間の営みについて深く考察します。
第6章 山 (The Mountain):1840年代。熱烈な信仰心を持つ女性アマンダ=ローガンが、父の遺志を継ぎ、ノアの方舟の残骸を見つけるためにアララト山に登ります。彼女は山頂付近で古い骨を見つけますが、それが聖なる遺物なのか、単なる死骸なのかは読者の解釈に委ねられます。
第7章 三つの簡潔な物語 (Three Simple Stories):
・タイタニック号:生き残った男が女装して救命ボートに乗ったという噂に一生苦しめられる話。
・ヨナ: 鯨に飲み込まれた聖書のヨナと、実際に海に落ちて鯨に飲み込まれそうになった男の比較。
・セントルイス号: ナチスから逃れるユダヤ難民を乗せた船が、どの国からも拒絶され彷徨う悲劇。
第8章上流へ! (Upstream!):南米のジャングルで、キリスト教の伝道師を演じる俳優チャーリーからの手紙。撮影現場は過酷で、共演者が川で溺死する事故が起きます。撮影という虚構の方舟が、現実の自然の猛威の前に崩壊します。
第9章 括弧(1/2章) (Parenthesis):物語の中間に挿入される、著者(バーンズ)の分身による私的なエッセイ。「歴史は嘘をつく。だから私たちは愛し合わなければならない」という、この本の核心となるメッセージが語られます。愛だけが、冷酷な歴史の流れに対する唯一の抵抗手段であると説きます。
第10章 夢 (The Dream):ある男が死後、現代的な天国で目覚めます。そこは何でも願いが叶う場所です。ゴルフで毎日ベストスコアを出し、有名人と食事をし、飽きるまで買い物をします。しかし、何でも手に入る永遠の満足は、やがて耐え難い苦痛となり、彼は本当の死(消滅)を選択します。




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