はじめに
大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』解説あらすじを書いていきます。『同時代ゲーム』のリメイクのような内容です。
語りの構造、背景知識
プラグマティックな歴史記述
フレイザー『金枝篇』がT=S=エリオット『荒地』に導入されて以降、作家は語りの手法に民俗学、社会学的アプローチをも積極的に取り入れるようになっていきました。特に本作でも用いられているアナール学派的な、中央の事件史に抗する心性史としての歴史記述のアプローチは、ガルシア=マルケス『族長の秋』『百年の孤独』などラテンアメリカ文学などとモードを共有します。
旧来的な中央の事件史としての歴史記述においては、歴史の構造的理解に欠き、そこから捨象される要素が大きすぎましたが、アナール学派は特定のトポスに焦点を当てたり、ミクロなアクターの視点に注目したりして、歴史の構造的把握と、歴史を構成するアクターの単位の修正を図りました。本作も同様に、ミクロな歴史的アクターの一人称的視点に着目しつつ、その集積物として歴史を構造的にとらえようとするプラグマティックな歴史記述のアプローチが見えます。
歴史の中のミクロなアクターの視点、語りを通じて歴史を記述、再構築しようとするアナール学派的アプローチは、小説家にとっても強力な武器となったのでした。
本作も山口昌男の影響が顕著です。
中心と周縁
たとえば中上健次が自身の出生も相まって部落のコミュニティや韓国、朝鮮を描いた背景とも共通しますが、そこにあるのはオンタイムの社会学、歴史学の動向です。
国家や帝国の矛盾や不正義を暴き、中心化を妨げる存在に焦点を当てるアプローチは、アナール学派のような心性史的な歴史学の潮流の動向と相まって、ポストコロニアル文学、批評に影響しました。中上健次に影響した網野善彦の「聖/俗」(デュルケーム由来ですが)「無縁」概念、大江健三郎に影響した山口昌男の「中心/周辺」概念などが典型的です。
山口昌男は「中心/周縁」と政治的世界を捉え、中心的な世界と周縁的な世界の相互作用のなかで政治のダイナミズムをとらえ、周縁的な世界が中心世界にもたらす文化的多様性に着目しました。
本作における故郷の村は世俗の中心の秩序の周縁的なトポスであり、中心の秩序の転覆の契機となっています。さまざまなネーションの歴史が無秩序に流入する空間で、混沌とした世界になっています。ちょうど中上健次『千年の愉楽』に描かれる世界に似ています。
童子という道化
童子という神話的トリックスターは『憂い顔の童子』にも現れます。これは中心と周縁の間で緊張が起こると、円満な調和をもたらしてくれる座敷童のような存在です。これは山口昌男が道化という存在に着目し、秩序に混沌を齎し、文化的な祝祭空間を醸成する道化による文化の豊穣をたたえたのに由来します。
このような道化の大江健三郎にとっての代表者が伊丹十三で、大江にとって伊丹はずっと、天才肌で脆い『ドン=キホーテ』的なトリックスターだったのでした。
物語世界
あらすじ
語り手「僕」は子供の頃、故郷の森の谷間の村を流れる川の「ウグイの巣」を覗きに行って、岩棚に挟まれ溺れかけます。「僕」は救出されるときに頭に怪我をします。このとき「僕」は神秘的なヴィジョンを見て谷間の村の言い伝えの伝承者としての自覚を持つようになります。
東京で作家となった「僕」の子供の光は後頭部に大きな瘤を持って生まれ、手術で取り除かれるが傷が残りました。「僕」の母は、その傷が、亀井銘助、銘助さんの生まれ変わりの「童子」、「僕」と共通のものであるといいます。
光には知的な障害が残るものの、音楽の才能発揮します。光は谷間の村で「僕」の母と過ごした経験から、ある曲を作曲します。
「僕」の母が入院して、遺言のテープが残されます。谷間の村に暮らす者らの魂はおおもとの「森のフシギ」から分かれて個々の魂となります。そして最終的にはおおもとの「懐かしい」「森のフシギ」に戻るのでした。母親は光の作った曲に「森のフシギ」の「懐かしさ」があるといいます。
参考文献
小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』(筑摩書房)



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