始めに
スティーブ=エリクソン『黒い時計の旅』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
スティーブ=エリクソンの作家性
スティーブ=エリクソンの作品に流れる重厚な歴史意識と、迷宮のように入り組んだ時間構成の根底には、フォークナーの影響が色濃く存在します。フォークナーが描いた場所の記憶や過去は決して死なない、それどころか過去にさえなっていないという感覚は、エリクソンが描く変容するロサンゼルスの街並みや、崩壊するアメリカの地図の中に、より幻想的な形で息づいています。
また、エリクソンはノワールの継承者でもあります。チャンドラーが確立した、都市の裏側に潜む虚無的なロマンティシズムと孤独な視線は、彼の文体の強固な骨格を成しています。そこにフィリップ=K=ディック的な現実そのものが剥がれ落ちていく感覚や、ガブリエル=ガルシアマルケスのマジックリアリズムが持つ、日常と超自然が分かちがたく溶け合う手触りが加わることで、独自のスリップストリーム的な世界観が構築されています。
さらに、トマス=ピンチョンのようなポストモダンな情報の集積や陰謀論的な広がりを想起させつつも、エミリー=ブロンテの『嵐が丘』に見られるような、時空を超えて燃え上がる宿命的な情念がその核に据えられています。
歴史と個人
物語の核心にあるのは、一個人の密やかな性的幻想や欲望が、いかにして歴史的な大惨事と結びついてしまうのかという問いです。主人公バニングがヒトラーのために執筆する魂の地図としてのポルノグラフィは、個人の内面的な闇が、世界を破滅させる巨大な悪の動力源となり得ることを示唆しています。
タイトルの黒い時計が象徴するように、本作では直線的な時間は崩壊しています。20世紀という時代が本来の軌道から外れ、断片化していく様子。過去・現在・未来が重なり合い、ある出来事が別の時代の出来事に干渉する幻視的な時間軸。 ここでは、時間は単なる物理的な尺度ではなく、人間の記憶や罪悪感によって歪められる心理的な空間として描かれています。
バニングは物語を書くことで歴史に干渉しますが、それは同時に自分が生み出した怪物が世界を飲み込んでいく過程を傍観することでもあります。これは、表現者が持つ想像力の危うさと、それが現実に及ぼす影響への倫理的責任というテーマを浮き彫りにしています。
登場人物たちは、ナチス支配下の欧州からアメリカの辺境へと、時間と空間を跨いで漂泊します。彼らは常に何かを失っており、その失われた断片を求めて彷徨うこと自体が、20世紀という狂気の時代を生きる人間のポートレイトとなっています。
物語世界
あらすじ
物語は1920年代、アメリカのペンシルベニア州から始まります。主人公のバニングは、ある凄惨な出来事をきっかけに故郷を捨て、大西洋を渡って欧州へと逃亡します。たどり着いた1930年代のベルリンで、彼は並外れた物語を綴る才能を見込まれ、ある人物に雇われることになります。その雇い主こそ、権力の階段を駆け上がろうとしていたアドルフ=ヒトラーでした。
ヒトラーがバニングに命じたのは、政治的な文書ではなく、彼自身の歪んだ性的幻想を満たすためのポルノグラフィの執筆でした。バニングがヒトラーの欲望を形にしていくにつれ、恐るべき現象が起こり始めます。バニングが書く妄想の物語が、現実の歴史を侵食し、ナチスの台頭や第二次世界大戦の惨禍と分かちがたく結びついていくのです。
やがて物語はバニングの手を離れ、彼と関わった女性たち、そしてその息子たちの視点へと移り変わります。凍りついた海を渡る逃亡劇。荒廃したアメリカの砂漠。時間が本来の進み方を止め、複数の現実が重なり合う不思議な空間。20世紀という時代そのものが、誰かの書いた悪夢であるかのように変貌し、バニングたちは失われた愛や自己の断片を求めて、歪んだ時間の中を彷徨い続けます。
バニングは、長年の放浪と世紀の闇を背負った旅の末、ついにデーニアという彼が物語の中で愛し、執着し続けた女性が住むダヴンホール島へと辿り着きます。バニングは、デーニアとその息子の住むホテルの近くで彼女に許しを乞い、息を引き取ります。この場面で、冒頭に登場した母親の目の前で死んでいた見知らぬ男の正体が、実はこの未来のバニング自身であったことが示唆され、物語が円環を閉じます。
島の習慣に従い、死んだバニングの遺体は木に吊るされます。これは死者が自分の名前を空に見出すまで、その魂が地上に留まるという奇妙で美しい儀式です。バニングは死んでいるはずですが、彼の意識は継続しており、木の上で風に揺られながら、自分が書き続けた物語や、自分を縛り付けていた20世紀の狂気から解放されていきます。
最終的に視点は、現代のロサンゼルスにいるもう一人の語り手マークへと戻ります。バニングが紡いできた壮絶な偽の歴史は、現実の20世紀の影として霧散し、最後には透明感のある静かな余韻を残して物語は幕を閉じます。




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