始めに
ウエルベック『ある島の可能性』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ウエルベックの作家性
ウエルベックは種々の作家の影響を受けています。
ウエルベックの『服従』の主人公はユイスマンスの研究者であり、作品全体が彼へのオマージュになっています。デカダンス、世俗への絶望などが共通します。また社会全体のシステムを描く手法において、バルザック的なリアリズムを継承します。
『ショーペンハウアーとともに』という著作を出すほど、ウエルベックはショーペンハウアーを信奉しています。人生は苦痛と退屈の間を揺れ動く振り子であるというショーペンハウアーの悲観主義は、ウエルベックの全作品のトーンを決定づけています。
ウエルベックのデビュー作はラヴクラフトの評伝『ラヴクラフト―世界と人生に抗って』でラブクラフトからも影響があります。コズミックホラーの視点は、人間観に強く反映されています。
ハクスリー『すばらしい新世界』における遺伝子操作や快楽主義による管理社会というテーマは『素粒子』や『ある島の可能性』といったSF的設定を持つ作品に直接的な影響を与えています。
タイトルの意味
この小説は、現代を生きるコメディアンのダニエル1と、その2000年後のクローンであるダニエル24、ダニエル25の視点が交互に語られます。
若さと美貌こそが唯一の価値である、という残酷なリアリズムが描かれています。主人公ダニエル1は、成功したコメディアンでありながら、自身の老化と、それによって性的な価値を失っていくことに耐えがたい苦痛を感じます。現代社会において、愛や性はもはや至高の感情ではなく、若さという資本に基づいた市場原理の一部にすぎないことが冷徹に描かれます。
本作には、実在するラエリアンムーブメントをモデルにした教団が登場します。宗教が説く魂の救済を、現代の科学が乗っ取るプロセスが描かれます。人々が神を信じなくなった後、最後に縋り付くのはテクノロジーによる肉体の継続でした。
物語の核となるのは、カルト教団エロヒム派が提唱するクローン技術による不老不死です。2000年後のクローン(ネオ=ヒューマン)たちは、病も死も克服しましたが、同時に欲望、苦痛、笑い、そして愛さえも失っています。自室に引きこもり、ネット越しに他のクローンと淡々と通信するだけの存在です。
タイトルの『ある島の可能性』とは、荒れ狂う虚無の海の中に、かつて存在した(あるいは存在するかもしれない)「愛」という安らぎの島を指しています。
ネオ=ヒューマンたちは、ダニエル1が残した日記を読み、かつての人間が持っていた愛という狂気に関心を抱きます。ラスト、クローンの一人がシステムの保護を捨て、未知の外界へと歩き出す姿は、不毛な不老不死よりも、たとえ死ぬ運命であっても、誰かを愛し、触れ合う可能性への評価にも見えます。
物語世界
あらすじ
物語はダニエル1の生涯を軸に構成されており、一連のクローンに刻まれた他のダニエル(ダニエル24、そしてとりわけオリジナルのダニエルから2000年後に生きるダニエル25)のコメントによって展開されます。
「ダニエル書 1章1節」から「ダニエル書 1章28節」と題された一連の章を通じて、主人公は、彼の世界観や心境とともに 、成人期の人生の段階を詳しく語ります。
ダニエル1は人種差別や性差別をネタにした過激な芸風で巨万の富を得ますが、その私生活は冷笑と孤独に満ちています。彼は二人の対照的な女性との関係を通じて、人間の老いと愛の不可能性に直面します。一人は知的な対話ができるが肉体的に衰えていくイザベル、もう一人は圧倒的な若さと肉体美を持つが彼を愛することのないエステルです。
若さこそが唯一の価値である残酷な消費社会において、愛を維持できないことに絶望した彼は、永遠の若さと生を約束する新興宗教「エロヒム派」に接近していきます。
この教団は、遺伝子情報と記憶をデジタル保存し、肉体が衰えると新たなクローンに記憶を転写して「再生」を繰り返すという、疑似科学的な不老不死を実現しようとしていました。
ダニエル1は、未来の自分のクローンたちが読むための「自分史(告白録)」を残し、このために物語はこの現代のパートと、数千年後の世界に生きるクローン、ダニエル24やダニエル25の独白が交互に挿入される形で進みます。
未来の世界では、人類の大半は絶滅し、ダニエルたちのクローンである「ネオ・ヒューマン」は、高度に管理された居住区で一人静かに暮らしています。彼らには苦痛も飢えもなく、性欲や感情すらも希薄になっています。彼らの日課は、先祖(ダニエル1)が残した支離滅裂で情熱的で、かつ惨めな人生の記録を読み、かつての「旧人類」がいかに野蛮で、しかし同時にいかに激しい感情を持っていたかを考察することでした。
しかし、ダニエル25は、先祖の記録の中に綴られた「愛」や「苦悩」というものに、現在の完璧だが空虚な生活にはない「何か」を感じ始めます。同じように、別の場所に住む女性のクローンであるマリー23もまた、システムが提供する平和な生に疑問を抱いていました。二人は通信を通じて惹かれ合い、ついにダニエル25は、死のリスクを冒して安全な居住区を脱出し、外の世界へと足を踏み出します。
外の世界は、文明が崩壊し、野蛮化した旧人類の生き残りが彷徨う荒廃した大地でした。ダニエル25は、かつてダニエル1が詩に書いた「ある島の可能性(愛し合える場所の象徴)」を求めて旅を続けます。
しかし、そこに待っていたのは甘美な再会ではなく、圧倒的な自然の無関心と、自分という個体が消滅していく静かな予感でした。最後は彼がもはや人間でもネオ・ヒューマンでもない、ただのひとつの存在として、荒涼とした海辺で「光」に包まれながら意識を閉じていくところで終わります。



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