始めに
オンダーチェ『イギリス人の患者』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
オンダーチェの作家性
時間の非線形な扱い、多視点的な語り、そして過去は決して死なないという歴史観において、フォークナーの長大な影があります。特に記憶が現在に侵食してくる叙述スタイルは共通しています。
オンダーチェはカルヴィーノの結晶のような、数学的ですらある構成を高く評価しています。散文の中に詩的な象徴を配置する実験的な姿勢に影響を受けています。
「見る」ということへの批評的眼差しを持つジョン=バーガーからは、視覚芸術的な描写の鋭さを継承しています。
D.H. ロレンスは、身体性や官能性、そして風景と人間の感情を密接に結びつける描写において、初期のオンダーチェが私淑していた対象です。
オンダーチェの作品が詩的なのは、彼が1960年代の北米の詩運動から多大な影響を受けたためです。呼吸(ブレス)に基づいた行分けや、即興的な言葉の運びにおいて、ロバート=クリーリーの影響は決定的です。神話的な要素を現代の断片に持ち込む手法など、ロバート=ダンカンはオンダーチェの詩学的基盤の一部を形作っています。
オンダーチェは、作家であると同時に優れたエディターでもあります。彼の小説構成は、物語を書くというよりはモンタージュに近いものです。映像のカットバックや、異なる時間軸の並置は、映画的な感性に基づいています。また代表作『バディ・ボールデンを覚えているか』に象徴されるように、ジャズの即興性、不協和音、そしてあえて語らない空白を文章のリズムに取り入れています。
ナショナリズム批判
本作のテーマは、ナショナリズムへの疑念です。主人公アルマシーは砂漠を愛していますが、それは砂漠が地図に描けない場所だからです。戦争が始まり、地図に境界線が引かれることで、個人の愛やアイデンティティが国家という枠組みに引き裂かれていく悲劇が描かれます。
「イギリス人の患者」と呼ばれている男が、実はハンガリー人の貴族であり、ドイツ側に協力していたという事実は、戦時下における敵・味方というラベルの虚虚しさを象徴しています。
インド人の爆発物処理班(サッパー)であるキップの存在は、西洋中心的な物語に一石を投じています。キップは西欧の技術の爆弾処理に習熟していますが、物語の終盤で広島・長崎への原爆投下を知り、西欧文明が非白人に対して向ける暴力性に直面します。彼が白人たちのコミュニティである修道院から離脱する展開は、戦後の世界秩序とポストコロニアルな問題を先取りしています。
歴史
物語の中でアルマシーが肌身離さず持っているヘロドトスの『歴史』は、重要な象徴です。アルマシーは、公的な歴史書である『歴史』の余白に、自分自身の私的なメモや写真を挟み込んでいます。これは、大きな歴史と小さな歴史の対比を意味しています。過去と現在が混濁する語り口そのものが、人間が記憶をどのように編集し、自己を定義していくかというプロセスを表現しています。
オンダーチェは、人間の身体を一つの風景や地図として描写します。全身に火傷を負い、個体識別が不能になった患者の身体は、過去のすべての記憶を封じ込めたアーカイブのような存在です。登場人物たちが抱える身体的・精神的な傷跡は、彼らが通り過ぎてきた時間や、愛した人々の証として刻まれています。
物語世界
あらすじ
物語は、1945年、第二次世界大戦末期のイタリアにある廃墟となった修道院ヴィラ・サン・ジローラモから始まります。大きく分けて「イタリアの現在」と「砂漠の過去」という二つの時間軸が、記憶の断片のように交錯しながら進んでいきます。
1945年、イタリアの修道院。連合軍が北上し、戦火が遠のきつつある中、4人の傷ついた男女が共同生活を送ります。
ハナは戦争で心に深い傷を負ったカナダ人の看護師です。動かすことのできない「イギリス人の患者」を世話し、一人修道院に踏み止まります。イギリス人の患者は全身を焼かれ、名前も国籍も不明な男です。ベッドに横たわり、ヘロドトスの『歴史』の余白に綴られた自らの記憶を断片的に語り始めます。カラヴァッジョはハナの父の友人で、元泥棒の工作員です。拷問により両親指を失っています。患者の正体が、戦時中にドイツ側のスパイとして砂漠を越えたハンガリー人貴族、アルマシーではないかと疑い、彼に真実を語らせようとします。キップはインド人の爆発物処理班(サッパー)です。いつ爆発するか分からない不発弾を解体し続ける日々の中で、ハナと淡い恋に落ちます。
1930年代後半、北アフリカの砂漠。患者(アルマシー)が語る、戦前のエジプト・リビア砂漠での記憶です。砂漠の探検家であり地図製作に従事していたアルマシーは、若きイギリス人女性キャサリン=クリフトンと出会い、激しい恋に落ちます。しかし、彼女は探検仲間の妻でした。
砂漠のまっただ中、飛行機事故によってキャサリンの夫が死亡し、彼女も重傷を負います。アルマシーは彼女を救うため、「泳ぐ人の洞窟」に彼女を残し、救援を求めて砂漠を歩き続けます。救援を求めるアルマシーを、イギリス軍はスパイと見なして拘束します。絶望した彼は、キャサリンの遺体を回収するためにドイツ軍に協力し、砂漠を越えるための地図を渡すという国家への裏切りを選択します。
物語の終盤、修道院に広島と長崎への原爆投下のニュースが届きます。西欧文明が非白人国家に対して向けた圧倒的な暴力に衝撃を受けたキップは、ハナやアルマシーとの絆を断ち切り、修道院を去ります。アルマシーは静かに息を引き取り、ハナもまた自らの人生へと戻っていきます。砂漠に引かれた境界線が個人の愛を壊したように、戦争という巨大な歴史が、束の間の共同体をバラバラにして物語は幕を閉じます。




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