始めに
ボフミル・フラバル『わたしは英国王に給仕した』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
フラバルの作家性
フラバルの作品に流れるパビテリ(お喋りたち)の精神は、先達からの強い影響を受けています。ヤロスラフ=ハシェクは『善良なる兵士シュヴェイク』の著者で、フラバルはハシェクが描いた一見愚かだが、実はしたたかに生き抜く小市民の系譜を継いでいます。酒場でのとりとめもない、しかし真実を突く語り口は、フラバル文学の骨格となりました。ラジスラフ=クリマはチェコの哲学者・作家ですが、グロテスクで過激な形而上学を展開したクリマから、フラバルは卑俗なものと崇高なものの共存という視点を学びました。
フラバルは若い頃、詩人としてキャリアをスタートさせており、フランスやチェコのシュルレアリスムに深く心酔していました。ギヨーム=アポリネールの都会の断片をコラージュのように繋ぎ合わせる手法に影響を受けました。日常の中の驚異を見出すシュルレアリスムのブルトンの視点は、フラバルがゴミ集積場や工場といった殺伐とした場所を、魔法のような詩的空間に変える際の手助けとなりました。意識の流れや、膨大な言葉の奔流といった文体面では、20世紀文学の巨匠たちの影が見て取れます。フラバルの代表作『あまりに騒がしい孤独』などの独白体には、ジョイス的な感性が息づいています。カフカは同じプラハの作家として、不条理な状況に置かれた人間を描く視点を共有していますがフラバルはカフカの冷徹な悪夢を、より血の通った、騒がしい祝祭へと書き換えました。
フラバルは老子の思想を好んで引用しました。柔よく剛を制すという考えや、無為自然の美学は、彼の描く負け組に見えて、実は宇宙と調和している主人公たちの造形に深く関わっています。
タイトルの意味
主人公のディチェは、給仕人という職業を通じて世界の王たちに仕えます。彼はプロフェッショナルとして、客のあらゆる欲望を察知しますが、彼自身は誰からも人間として直視されません。
給仕人はそこにいて、そこにいない存在です。この設定により、富、権力、性、そして戦争といった人間の営みを、冷徹かつユーモラスな外部の視点から描いています。英国王に給仕したという誇りは、単なる職歴ではなく世界の頂点に触れたという自己肯定の拠り所です。しかし、その誇りがナチス占領、共産化の中でいかに無意味で滑稽なものに変質していくかが描かれます。
フラバル文学の真骨頂であるパビテリ(現実を詩的に肯定する人々)の精神が、全編を貫いています。凄惨な戦争や政治的抑圧の中でも、ディチェは鏡に映る花々や散らばる100万コルナの紙幣といった視覚的な美しさに執着します。 断片的なエピソードが、意識の流れのように次々と接続される文体は、日常の卑俗な光景を聖なるものへと昇華させるシュルレアリスム的な魔法の役割を果たしています。
ミクロな歴史
チェコスロバキアの激動の近現代史、ナチスの傀儡国家から共産主義体制へ、を背景に政治的信念を持たない小市民がいかに翻弄されるかが描かれます。ディチェはナチスの女性と結婚しますが、それは思想への共鳴ではなく、単なる上昇志向からです。彼は悪人ではありませんが、時代の激流に対してあまりに無防備です。念願のホテル・オーナーになり、100万長者になった瞬間に共産主義革命が起き、すべてを没収されるという展開は、物質的な成功の脆さを強烈に風刺しています。
物語の終盤、すべてを失い山奥で道路補修工となったディチェの姿にテーマが隠されています。華やかなホテルでの喧騒を離れ、自然の中で動物たちと語らい、独りでビールを飲む生活。ここで彼は初めて、誰かに仕えるのではない自分自身の王となります。社会的な地位や富を剥ぎ取られた後に残る孤独な自由こそが、フラバルが提示した究極の人間賛歌です。
物語世界
あらすじ
プラハの安ホテルで働き始めたディチェの関心は金と女だけでした。彼は小柄な体格を逆手に取り、客の懐に入り込む術を学びます。
高級ホテルに移った彼は、かつてエチオピア皇帝や英国王に給仕したという伝説の給仕長から、すべてを見て、何も見ないというプロの極意を伝授されます。 彼は、一流の給仕人こそが世界の真の支配者たちの姿を知ることができると確信し、自らも百万長者になることを夢見ます。
第二次世界大戦が勃発し、チェコがナチス・ドイツに占領されると、ディチェは周囲のチェコ人たちが抵抗運動に身を投じる中で、ドイツ人女性リーズと結婚します。彼はナチスの優生思想に基づく人間牧場のような施設で給仕をし、自らも優れたアーリア人を産むための生活を送ります。
妻リーズが戦地ポーランドから持ち帰った、ユダヤ人から略奪した貴重な切手コレクションが、後の彼の運命を大きく変えることになります。
戦後、リーズは空襲で亡くなりますが、ディチェは彼女が残した切手を換金し、ついに念願の百万長者になります。彼は豪華なホテルを買い取り、富の象徴として床を硬貨で埋め尽くすような奇行に走ります。しかし、喜びもつかの間、1948年の共産主義クーデターによって全財産とホテルを没収されてしまいます。彼は自ら百万長者として逮捕されることを望み、収容所へと送られます。
刑期を終えたディチェは、誰一人知る者のいないシュマヴァの山奥で、荒れ果てた道路の補修工として余生を過ごすことになります。かつて華やかな宴会を仕切っていた彼は、今は馬や山羊、そして一匹の犬を相手に、鏡に向かってビールを注ぎ、自分自身に給仕をします。
吹雪の中で過去を振り返りながら、彼は自分が何者であったかではなく、今、ここに存在していることの静かな喜びに到達します。




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