始めに
アッ・タイーブ・サーレフ『北へ遷りゆく時』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
アッ・タイーブ・サーレフの作家性
コンラッドは最も頻繁に指摘される影響関係です。コンラッドの代表作『闇の奥』ではヨーロッパ人がアフリカの奥地へと向かいますが、サーレフの『北へ遷りゆく時』はそれを意図的に逆転させ、アフリカの知識人が宗主国ロンドン(「北」)へと向かう構造をとっています。
ウィリアム・シェイクスピアの、特に戯曲『オセロ』が作品の深層に強く作用しています。作中の主人公ムスタファー・サイードは、ロンドンで東洋的なエキゾチシズムを演じる際にオセロ像を利用・対比させ、「私はオセロではない。オセロは嘘だった」という象徴的な告白を残しています。
サーレフはロンドン大学留学期に英文学を深く学びました。エリオットの『荒地』に見られる精神的荒廃のモティーフや、ジョイスの意識の流れ、亡命者のアイデンティティ葛藤といった西洋モダニズム文学の技法から大きな影響を受けています。
ムタナッビーやアブー・ヌワースはアッバース朝などのアラブ古典詩の巨匠たちです。サーレフの散文は非常に詩的で独特の韻律を持っていますが、これは彼が少年時代から親しんだアラブ古典詩の壮大な比喩や表現美に根ざしています。
イムル・アル=カイスはイスラーム以前(ジャヒリーヤ時代)の古典詩人で、砂漠や流浪、情熱を描いた伝統的な詩のイメージが、サーレフの叙情的な描写力の糧となっています。
ナイル川沿いの村々で語り継がれてきた口承民話やスーフィズムの聖人伝・賛歌も彼の世界観の重要な基盤です。『ゼーンの結婚』などの作品には、神秘的で濃密なアフリカやアラブ的村落の伝承文化が色濃く反映されています。
文化的衝突
テーマは西洋(北)とアラブ・アフリカ(南)の文化的政治的衝突です。主人公ムスタファー・サイードは、かつて自国を植民地化した宗主国イギリス(ロンドン)へ渡り、イギリス人女性たちを次々と誘惑、破滅させます。これは、かつて西洋がオリエンタリズムによってアフリカを搾取したことに対する、性を通じた逆植民地化として描かれています。
ロンドンでの知識人としての成功の裏には、常に征服者と被征服者という支配関係の影がつきまといます。西洋文化を深く吸収したアフリカ知識人が直面する、自分は何者なのかという根源的なアイデンティティの喪失を描いています。シェイクスピアの『オセロ』になぞらえられ、西洋側からエキゾチックな異人としての役割を押し付けられることに対する強い拒絶と苦悩があります。
エリートの孤独
西洋に完全に融合することもできず、さりとて伝統的なスーダンの村社会にそのまま戻ることもできないという、二重の疎外感が通底しています。
物語は、イギリス留学から村へ戻った語り手の視点で進みますが、彼にとってムスタファー・サイードはもう一人のあり得た自分として存在します。
ムスタファーは西洋の知性を極め、情熱と暴力の果てに自滅していった陰の存在。語り手は村の平凡な日常に踏みとどまろうとしながらも、ムスタファーの影に引きずり込まれ、狂気と正気の狭間で揺れる存在です。
語り手がナイル川の水中で溺れかけながら「私は生きることを選ぶ」と叫ぶクライマックスは、分身の呪縛を断ち切り、自らの足で立つための生への闘いを象徴しています。
ジェンダー
ロンドンでの愛執劇だけでなく、後半のスーダンの村で起きる惨劇を通じて、ジェンダーと伝統的家父長制の暴力が暴かれます。
ムスタファーの未亡人ホスナ・ビント・マフムードは、村の老人との意に沿わない強制結婚を拒絶し、最後には凄惨な事件を起こします。これは、西洋の支配構造だけでなく、アラブ・アフリカ内部に存在する女性への抑圧や過酷な伝統に対する激しい告発でもあります。
ナイル川沿いの村は一見すると穏やかで伝統的な世界ですが、そこにも近代化の波や政治的腐敗、外部世界からの変化が静かに浸透しています。変わらない郷愁の場としての故郷はもはや存在しないという冷徹な現実が描かれています。
物語世界
あらすじ
イギリスで英文学の博士号を取得し、ナイル川沿いの静かな村へ戻った語り手は、見慣れない男ムスタファー・サイードに出会います。彼は数年前に外からやってきて、村の女性ホスナと結婚し、物静かな農夫として暮らしていました。しかしある夜、酒に酔ったムスタファーは、語り手に向かって完璧な英語で近代詩を暗唱してみせます。ただの農夫ではないと確信した語り手に、ムスタファーは自身の驚愕の過去を語り始めます。
ムスタファーはかつて神童と呼ばれ、カイロを経て1920年代のロンドンへ留学した天才経済学者でした。彼は西洋人たちの東洋(オリエント)への幻想や差別心を逆手に取り、エキゾチックな異人としての魅力を演じることで、イギリス人女性たちを次々と誘惑します。彼にとってそれは、自国を支配した宗主国(西洋)に対する性を通じた復讐でした。
しかし、彼の誘惑に応じた女性たちは次々と自殺に追い込まれます。そしてついに、一筋縄ではいかない魔性の女性ジーン・モリスと愛憎の果てに結婚し、彼女を刺殺してしまいます。ムスタファーは投獄され、出所後に流浪の果てにこの村へ辿り着いたのでした。
過去を明かしたのち、大増水したナイル川の中にムスタファーは静かに姿を消します。彼は語り手に、遺された妻ホスナと子供たちの後見人となること、そして鍵のかかった開かずの部屋の鍵を託していました。
ムスタファーの死後、伝統的な家父長制が支配する村では、ホスナを好色な老人ワド・レイエスと無理やり再婚させようとする圧力が強まります。拒絶し続けたホスナでしたが強制的に結婚させられ、ついに初夜の晩、夫を刺殺したのち自らも命を絶つという凄惨な事件を起こします。
惨劇の衝撃の中、語り手はこれまで避けていたムスタファーの開かずの部屋の鍵を開けます。そこにあったのは、ヴィクトリア朝風の暖炉や洋書で埋め尽くされた、完璧な西洋の書斎(ムスタファーの亡霊の墓場)でした。
ムスタファーの狂気と影に飲み込まれそうになった語り手は、夜のナイル川へと飛び込みます。北(西洋)と南(伝統)の潮流に挟まれ、水中で生死の境を漂う語り手でしたが、最後に彼は生きることを決意します。「私は死ぬために生きているのではない。選ぶのだ。私は生きることを選ぶ」と。彼はナイルのただ中で自らの存在を叫び、助けを求める声を上げます。




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