はじめに
ジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
ルカレの作家性
ル・カレ自身が大きなインスピレーション源として繰り返し名前を挙げているのが、グレアム・グリーンとジョゼフ・コンラッドです。グレアム・グリーンはル・カレ同様、イギリス情報部(MI6)に在籍した経験を持つ作家です。グリーンは『静かなアメリカ』や『ヒューマン・ファクター』などで、スパイの世界における人間の不確実さや裏切り、道徳的な曖昧さを描きました。
コンラッドは『密偵』や『ロード・ジム』で知られる、ポーランド出身のイギリスの小説家です。ル・カレはコンラッドの文体を深く愛し、英語という言語に、それまで到達していなかった威厳を与えたと評しています。
ル・カレ以前にも、スパイの世界をリアルに描こうとした作家たちがおり、彼はその系譜を引いています。サマセット・モームは自身も第一次世界大戦中に情報部員として活動した経験をもとに、スパイ短編集『アシェンデン』を執筆しました。エリック・アンブラーは1930年代から40年代にかけて、普通の人間が国際政治の陰謀に巻き込まれていくリアルなサスペンスを確立した作家です。ル・カレのような冷徹で知的なスパイ小説の土壌を作った先駆者と言えます。
ジョン・ビンガム(クランモリス卿)はル・カレがイギリス安全保障局(MI5)に籍を置いていた時代の上司であり、自身も警察・スパイ小説を書いていた作家です。ビンガムは若いル・カレに働きながら小説を書く方法を教え、執筆を強く勧めました。さらに、ル・カレが生み出した不世出の主人公ジョージ・スマイリーの容姿やネクタイの端でメガネを拭くといった癖は、このビンガムがモデルになっています。
ル・カレは若い頃にスイスやオックスフォードでドイツ語・ドイツ文学を専攻しており、のちに「若い頃に学んだドイツ文学の影響から自由な作品は一つもない」と語っています。『魔の山』に代表されるシンボリズムや、カフカ的な巨大で不条理な組織に翻弄される個人というテーマは、ル・カレの東西冷戦下における、組織と個人の対立構造の描写に重厚な深みを与えています。
サーカスの腐敗
物語の舞台となるイギリス秘密情報部(通称「サーカス」)は、かつての大英帝国の栄光を維持しようと足掻く、老いた組織の象徴です。組織の上層部という、最も信頼関係があるはずの場所から腐敗が始まっているという構造自体が、当時のイギリスの国力減退や理想の喪失を暗示しています。スパイ活動は華やかなジェームズ・ボンド的な冒険ではなく、膨大な書類、冷徹な計算、そして駒として使い捨てられる人間たちの事務的な処理として描かれます。
西側(イギリス)が必ずしも正義ではなく、東側(ソ連)が必ずしも悪ではありません。登場人物たちは皆、国家という巨大なシステムのために個人の良心を切り売りし、疑心暗鬼の中で生きています。
何のために戦っているのか、誰を信じるべきなのか。その問いに対する答えが誰にも分からないという出口のない状況が虚無感を与えます。
スパイの孤独
主人公ジョージ・スマイリーを通して描かれるのは、スパイという生き方を選んだ人間が背負わされる孤独です。嘘をつき続け、人を裏切り、あるいは愛する人でさえ疑わなければならない。その結果として彼らが手にするのは、組織からの疎外と、個人的な人間関係の崩壊です。スマイリーは、妻の不貞や組織の汚職といった、私的・公的な裏切りのすべてを誰よりも深く理解してしまいながらも、淡々と任務を遂行せざるを得ない人物として描かれます。
この物語における「モグラ」は、組織の癌であると同時に、組織が内包していた欺瞞そのもののメタファーでもあります。
物語世界
あらすじ
冷戦下のロンドン。イギリス秘密情報部(「サーカス」)のトップである「コントロール」は、組織の最高幹部の中に、ソ連の知将カーラが送り込んだ二重スパイ「モグラ」が潜伏しているとにらんでいました。コントロールは容疑者を5人の幹部に絞り込み、イギリスのマザーグースになぞらえて暗号名をつけます。パーシー・アレリン(ティンカー/鋳掛け屋)、ビル・ヘイドン(テイラー/仕立屋)、ロイ・ブランド(ソルジャー/兵隊)、トビー・エスタヘイス(プアマン/貧乏人)、ジョージ・スマイリー(ベガマン/乞食)。コントロールは独自にモグラの正体を暴くため、信頼する工作員ジム・プライドーをチェコスロバキアへ派遣します。しかし、この作戦は事前にソ連側に漏れており、プライドーは撃たれて拘束。作戦は完全に失敗します。この責任を取らされる形でコントロールは失脚しのちに病死、彼の右腕だったベテラン情報部員のジョージ・スマイリーもまた、サーカスを追われて引退を余儀なくされました。
それから1年後。アレリンを新長官、ヘイドンをその補佐とする新体制となったサーカスは、ソ連の重要拠点から極秘情報を引き出すウィッチクラフト作戦の成功により、かつてない黄金期を迎えているように見えました。
しかしある日、前線から帰還した不正規工作員リック・ターが、外務省の次官ラコンに重大な情報をもたらします。サーカスの最上層部には、今もソ連のモグラが潜んでいる、と。
事態を重く見たラコンは、新体制の利害関係から完全に外れている唯一の男、引退して隠居生活を送っていたスマイリーを呼び戻し、極秘裏にモグラの正体を突き止めるよう命じます。
スマイリーは、サーカス内に残る数少ない信頼できる若手ピーター・ギラムを相棒に据え、現役幹部たちに気づかれぬよう、隠れ家で過去の膨大な記録や通信ログの精査を始めます。調査を進める中で、スマイリーは驚くべき歪みに気づきます。現在のサーカスが熱狂しているウィッチクラフト作戦の重要情報は、実はソ連側がイギリスを信用させるために意図的に流した小出しの餌に過ぎなかったこと。本物の作戦の目的は、イギリスを信用させた上で、サーカス上層部のモグラを通じて、イギリス、そして同盟国アメリカの最高機密をモスクワへ逆流させることでした。
さらにスマイリーは、かつてチェコで罠に落ち、拷問の末にイギリスへ送還されて失踪していたジム・プライドーの居場所を突き止めます。彼の証言から、かつての作戦失敗の裏にあった裏切りの生々しい全貌が浮かび上がってきます。
容疑者たちが仕掛けた巧妙な迷路を一つずつ解き明かしたスマイリーは、ついにモグラの正体を確信します。スマイリーはギラムの手を借り、サーカスのシステムを逆手に取った罠を仕掛けます。モグラがモスクワのハンドラーと直接接触せざるを得ない状況を意図的に作り出したのです。
深夜、ロンドン市内にあるソ連のセーフハウス。闇の中で待ち受けるスマイリーの前に現れたのは、かつての同僚であり、スマイリーの妻の不貞をも冷酷に利用していたビル・ヘイドンでした。
モグラの逮捕によってサーカスは救われますが、そこに勝利の歓喜はなく、かつての友の裏切りと、長年組織を支えてきた男たちの孤独な哀愁が残ります。




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