始めに
アンソニー=トロロープ『今の生き方』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
トロロープの作家性
トロロープが最も熱烈に崇拝し、のちに彼の評論伝記(『サッカレー』1879年)まで執筆したのが、『虚栄の市』の著者サッカレーです。人間の虚栄心や社会の階級制度を冷徹かつユーモラスに観察する視点は、サッカレーから強く受け継いでいます。トロロープはサッカレーの社会風刺の鋭さと、冷笑的になりすぎない人間味のバランスを手本にしました。
トロロープ自身が小説家の中で最もお気に入りと公言していたのが、一世代前のジェーン・オースティンです。イギリスの地方社会、特に中産階級や聖職者たちの日常、そして彼らの間で繰り広げられる結婚をめぐる心理戦や人間模様を細やかに描く手法は、オースティンの伝統をストレートに受け継いでいます。代表作『バーセットシャー物語』などののどかな村の風景や人間関係は、オースティンの世界観の延長線上にあると言えます。
彼の母親フランシスも、当時はアンソニー以上に売れっ子だった高名な小説家です。トロロープの父親は法曹界や農場経営に失敗し、一家は破産寸前でした。そんな中、50代になってから小説を書き始めて家族を養ったのが母親でした。
同時代の絶対的なスターだったディケンズは、肯定的な意味でも否定的な意味でも大きな存在でした。トロロープはディケンズの誇張されたキャラクターや、社会問題を過度にメロドラマ化する手法に懐疑的でした。初期の傑作『見張り番』では、ディケンズをモデルにした「ミスター・ポピュラー・センチメント(大衆感情氏)」というキャラクターを登場させて風刺しています。
当時の偉大な思想家・歴史家であるカーライルも、トロロープが意識した知識人の一人です。カーライルが説く過激な社会批判や懐古主義に対し、トロロープはより穏健で中道的な見方を好みました。ディケンズ同様、『見張り番』の中でカーライルを「ドクター・ペシミスト・アンティカント(悲観的反対論博士)」としてパロディ化し、彼の極端な思想をユーモアに変えています。
文明批評
物語の中心に君臨するのは、出自の怪しい謎の大富豪・金融業者オーガスタス・メルモットです。彼は中身のまったくないメキシコ鉄道建設という架空の巨大利権をぶち上げ、ロンドンの投機熱を煽って株価を吊り上げます。 額に汗して働く人間が馬鹿を見、実体のない金融操作や株の転がしで一獲千金を狙う、当時のバブル経済の狂気と虚飾を痛烈に批判しています。
トロロープが最も憤っていたのが、社会全体のモラルの低下でした。メルモットがどれほど胡散臭い詐欺師だと薄々気づいていても、彼が圧倒的な富を持ち、中国皇帝を招くような派手な晩餐会を開くと、貴族も政治家もこぞって彼に群がり、最終的には国会議員にまで当選させてしまいます。どれほど不誠実な悪事であっても、それが壮大で、きらびやかな宮殿(富)に包まれていれば、世間はそれを犯罪とは呼ばず、むしろ英雄視してしまうという、現代にも通じる社会のダブルスタンダードを暴いています。
金権主義
登場人物たちの恋愛や結婚が、純粋な感情ではなく借金返済の道具や資産の奪い合いとして機能しています。破産寸前でギャンブル中毒の美形准男爵フィーリックスは、メルモットの莫大な財産を目当てに彼の一人娘マリーにプロポーズします。愛のない結婚、持参金目当ての駆け引きを通じ、上流階級の若者たちの精神的な貧しさと没落を描いています。
メルモットの金融詐欺と並行して描かれるのが、フィーリックスの母親であるレディ・カリベリーをめぐる文学界の風刺です。彼女はろくな才能もないのに、書評家に媚を売り、接待をして自分の本を大絶賛させようと画策します。文学や言論の世界すらも中身ではなく、根回しや自己プロモーションという虚飾によって動かされている現実を描写しています。
物語世界
あらすじ
物語の舞台は1870年代のロンドン。出自不明のうさんくさい外国人金融業者オーガスタス・メルモットが、突如社交界の注目の的となります。彼はアメリカ・メキシコ間を結ぶ巨大鉄道計画をぶち上げ、その株式を発行して大々的な投資を呼びかけます。ロンドンの上流階級は、額に汗して働くことを嫌い、一獲千金を夢見てメルモットの役員会にこぞって名前を連ね、株を買いあさります。メルモットの周囲には、莫大な富と、彼の娘マリーの持参金を狙う男たちが群がっていきます。
物語は、メルモットを軸にした2つの家系や若者たちの人間模様へと展開します。借金まみれの美形准男爵フィーリックス・カリベリーは、メルモットの娘マリーの財産を目当てに近づきます。マリーは彼を本気で愛し、父親の反対を押し切ってアメリカへの駆け落ちを計画します。しかし、フィーリックスは駆け落ち当日の夜、クラブでギャンブルに興じて旅費をスってしまい、駅に現れませんでした。この計画は悲惨な失敗に終わります。
フィーリックスの従兄弟であるロジャー(誠実な田舎地主)の友人、ポールは鉄道事業の役員になりますが、次第にメルモットの計画が実体のない詐欺であることに気づき、告発しようとします。私生活ではフィーリックスの妹ヘッタと愛し合いますが、アメリカ時代の訳ありな元婚約者ハートル夫人がロンドンに乗り込んできて、泥沼の三角関係に陥ります。
メルモットの権勢は絶頂に達します。彼はイギリスの国会議員に当選し、ロンドンを訪問した中国皇帝を私邸でもてなす、国家レベルの大晩餐会を主催します。しかし、その華やかな舞台の裏で、メルモットの資金繰りは完全に破綻していました。彼は他人のサインを偽造して書類をねつ造するなどの犯罪に手を染めており、ついにその悪事が露呈し始めます。追い詰められたメルモットは、娘マリーが持つ信託財産をだまし取ろうとしますが、フィーリックスに裏切られて冷酷になったマリーは、父親へのサインを拒否します。
万策尽きたメルモットは、国会で酔っ払って醜態をさらした翌日、自ら毒を飲んで自殺を遂げます。彼が作った金融バブルは一瞬にして弾け飛び、彼を崇めていたロンドンの社会は一転して彼を激しく非難し、手のひらを返します。
メルモットの死後、登場人物たちはそれぞれの現実と向き合います。マリー(メルモットの娘)は父親の遺産を一部確保し、フィーリックスを見限って、最終的には別の成金男と結婚してアメリカへと旅立ちます。フィーリックスは完全に没落し、母親からも見捨てられて、最終的にはドイツの片田舎へ追放同然で送られます。ハートル夫人との過去を清算したポールは、ヘッタとの結婚を許されます。厳格で誠実な地主ロジャーは、ヘッタへの失恋を受け入れ、二人の結婚を祝福して自身の広大な領地を彼らに譲ることを約束します。




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