始めに
アルベール・コーエン『選ばれた女』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
コーエンの作家性
『聖書』とユダヤの預言者たちはコーエンの文学における最大の源泉です。ギリシャのユダヤ人コミュニティに生まれ、自身のアイデンティティを深く意識していた彼は、旧約聖書やエレミヤなどの預言者たちの書物から、独特の語りのリズムや倫理的なメッセージを吸収しました。デビュー詩集『ユダヤの言葉』や、人間の憎悪を乗り越えようと訴える自伝的作品『おお、汝ら人間たちよ』には、聖書特有の詩的で崇高なトーンが色濃く反映されています。
コーエンはプルーストを偉大な小説家の最高の手本として深くリスペクトしていました。代表作『選ばれた女』に代表される、恋愛における狂気じみた嫉妬の執拗な解剖、愛の主観的な歪み、そして時間がもたらす残酷な変化の描写には、プルーストが『失われた時を求めて』との共通性が見えます。
初期の詩人としてのコーエンに直接的なインスピレーションを与えたのが、フランスのユダヤ系詩人、運動家のアンドレ・スピールです。スピールの詩集『ユダヤの詩』で見られる、溢れるような叙情性と、自らのルーツに対する激しい誇りや情熱の表現は、若きコーエンのスタイルを決定づけました。
フランスの高等中学校(リセ)で徹底的なエリート教育を受けたコーエンは、フランス文学の遺産を深く血肉化していました。逃れられない情熱によって自滅していく人間の悲劇性は、17世紀の古典劇作家ラシーヌの悲劇に通じるものがあります。社会の虚栄やブルジョワジーの偽善を冷徹に、かつコミカルに暴き出す風刺的な視点は、フローベールやゾラなどの19世紀写実主義文学から影響がみえます。
コーエンの小説には、19世紀の連続新聞小説の巨匠ウジェーヌ・シュのような、波乱万丈で大衆をワクワクさせる物語のエネルギーもブレンドされています。また、悲劇の中に突如として道化や喜劇的なキャラクターを登場させて世界の不条理を描く手法には、シェイクスピアの戯曲からの影響も指摘されています。
フランスの国民的作家、映画監督であるマルセル・パニョルとはマルセイユの学校時代からの大親友でした。南仏の陽気な叙情を持つパニョルと、人間の生と死を重厚に描くコーエンは文学的スタイルこそ対照的でしたが、生涯にわたりお互いを刺激し合う存在でした。
不倫の果てに
本作のメインプロットは、国際連盟の高官ソラールと、貴族出身の人妻アリアーヌの狂気的な不倫愛です。二人が求めたのは、社会のルールや他人の目、さらには日常の退屈すら排除した純粋で絶対的な愛の理想郷でした。彼らは周囲との関係をすべて断ち切り、南仏のリゾート地の邸宅に二人だけで引きこもります。
しかし、コーエンが描くのはハッピーエンドの先にある残酷な現実です。外部の世界を失った愛は、次第にお互いを監視し、演じ続けなければならない息苦しい劇場へと変貌します。退屈、肉体の衰えへの恐怖、嫉妬によって愛が自らの毒で腐食していくプロセスが、執拗なまでに描かれ、最終的に二人は心中へと向かいます絶対的な愛は、この生々しい現実世界では持続不可能であると描かれます。
文明批評
舞台となる1930年代のジュネーヴ(国際連盟)に集まる外交官やその家族たちの、虚栄心、出世欲、俗物根性がこれでもかとユーモラスに暴かれます。特に、アリアーヌの夫であるアドリアン・ドゥームの、上司に媚び、肩書きを狂信し、自分の体面ばかりを気にする姿は、コーエンの冷徹かつコミカルな筆致によって徹底的に解剖されます。
主人公ソラールは、人間が文明人を気取りながら、本質的にはただの毛深い哺乳類に支配されている事実に深く絶望しています。男は女の若さと肉体に惹かれ、女は男の社会的地位や強そうな外見に惹かれる。ソラールはこうした遺伝子レベルの動物的な愛を激しく軽蔑し、それを超越した精神的な絶対愛をアリアーヌに求めました。しかし、人間である以上、肉体の欲求や衰えからは逃れられません。この精神の気高さと肉体の動物性の引き裂かれるようなギャップが、作品全体に漂うエキセントリックな緊張感を生み出しています。
最高権力と美貌を持ち、西欧のエリート社会の頂点にいるソラールですが、その胸の奥にはどれだけ成功しても、自分は決して受け入れられない異邦人(ユダヤ人)であるという深い疎外感と孤独があります。このテーマは、作中に登場するソラールの愛すべきユダヤ人の従兄弟ら勇敢な仲間たち(マニャン派)の、泥臭くも生命力に溢れた喜劇的な描写と対比され、ソラールが抱える洗練された西欧社会への過剰適応と、そこからの切断という悲劇性をより際立たせています。
物語世界
あらすじ
舞台は1930年代、第二次世界大戦前夜のジュネーヴ。国際連盟の事務次長を務めるソラールは、圧倒的な権力、知性、そして美貌を兼ね備えたユダヤ系の若きエリートです。彼は、部下である凡庸な国際官僚アドリアンの妻、アリアーヌに激しい恋心を抱きます。
しかし、ひねくれた理想主義者であるソラールは、彼女が自分の地位や美貌ではなく魂を愛してくれるかを試すため、醜い老ユダヤ人に変装して彼女の寝室に忍び込みます。アリアーヌは恐怖し、彼を激しく拒絶します。人間の外見や属性にしか惹かれない動物性に絶望したソラールは、今度は本来の輝かしい姿(最高権力者)として彼女の前に現れ、圧倒的な魅力で彼女をあっさりと誘惑し、二人は激しい不倫関係に落ちます。
二人の情事は、やがて社交界の知るところとなります。ソラールは権力を乱用してアリアーヌの夫を遠ざけますが、やがてスキャンダルとなり、アリアーヌは夫と離婚。同時に、ヨーロッパにナチズムの足音が迫る中、ユダヤ人であるソラールは国際連盟内での地位を追われ、フランス国籍も剥奪されてしまいます。社会的な地位も、富も、家族もすべて失った二人は、お互いの愛だけを武器に、南仏マントンの豪華な別荘へと逃亡し、二人きりの引きこもり生活を始めます。
南仏の邸宅で、彼らは仕事も、友人も、社会との関わりもすべて排除した絶対的な愛の理想郷を築こうとします。しかし、待っていたのは窒息するような退屈でした。社会という背景を失った二人の前には、ただ恋人としての自分たちしか残りません。彼らは相手を幻滅させないため、そして愛を燃え上がらせ続けるために、必死の演技を始めます。お互いトイレに行く姿を決して見せない。相手の前に出るときは、何時間もかけて完璧に化粧をし、ドレスアップする。会話が途切れて退屈するのを恐れ、わざと嫉妬を煽るようなゲームをする。愛を維持するための努力は、次第に二人を精神的に追い詰める過酷な労働へと変貌していきます。
肉体は確実に衰え、どんなに必死に演じても、二人の間の情熱は冷酷に枯渇していきます。外の世界に戻る道はすでに閉ざされており、お互いへの愛が完全に憎しみや軽蔑に変わる恐怖に、二人は耐えられなくなります。
ある夜、ソラールとアリアーヌは、まるで初めて出会ったときのように最高に美しく着飾り、大量の睡眠薬をシャンパンで流し込みます。二人はベッドの上で互いを抱きしめ合い、愛が完全に腐り果てる前に、自ら命を絶つのでした。




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