始めに
春樹『騎士団長殺し』解説あらすじを書いていきます。
背景知識、語りの構造
モーツアルト「ドン=ジョバンニ」
肖像画家の「私」は、アトリエの屋根裏でタイトルになっている「騎士団長殺し」という日本画を発見します。雨田具彦が、モーツァルトのオペラ「ドン=ジョヴァンニ」を飛鳥時代にアレンジした奇妙な日本画でした。
モーツァルトのオペラ「ドン=ジョヴァンニ」はドン=ファン伝説を扱うものです。舞台は17世紀、スペイン。伝説のドン=ファンことドン=ジョヴァンニは、女たらしのうつり気な男です。従者のレポレッロに見張りをさせて、ドンナ=アンナの寝室に忍び込むものの、失敗します。ドンナ=アンナの父、騎士長が駆けつけたものの、ドン=ジョヴァンニは彼を刺し殺し、レポレッロとともに逃げます。
そんなドン=ジョバンニですが、最後には殺した騎士長の石像が訪ねてくるのです。ドン=ジョヴァンニは弁明するものの、石像は彼の手をつかみ、地獄に引きずり落とします。
「騎士団長殺し」はこのドン=ジョヴァンニの騎士長殺しを描いたものです。
「騎士団長殺し」の作者、雨田具彦
この作者である雨田具彦は、過去にウィーンに留学し、ゲシュタポに恋人を殺され自身もまた日本に強制送還されています。彼の弟も戦争で南京に送られ、南京大虐殺に関わった後に自殺をしています。ウィーンからの帰国後に描かれたのが「騎士団長殺し」の絵でした。
つまるところ、恋人を救えなかった無念を象徴するのが、「騎士団長殺し」の絵画なのでした。ドンナ=アンナを救えなかった騎士団長の無念に仮託して、自身の心情を描いています。
ドン=ジョバン二となる主人公
本作では、「騎士団長」、その正体は思念を実体化できる「イデア」が登場し、作中でこの騎士団長を語り手の私が殺すことになります。こうして雨田具彦の無念とその責任の清算が、実現されます。
そしてこれによって、主人公は「ドン=ジョヴァンニ」におけるドン=ジョヴァンニの役柄を演じることになります。また、石室に閉じ込められる終盤の展開も、ドン=ジョヴァンニの最後を思わせます。
モーツァルトのオペラ「ドン=ジョヴァンニ」のドン=ジョヴァンニは女たらしの悪漢で、家庭や女性を顧みるタイプではないですが、そのあとで主人公は妻との絆を再生させます。
むしろこれは、象徴としてのドン=ジョバンニを演じることなどを通じて、自身の加害性や認識の歪みを意識できたことに由来すると解釈できます。『国境の南、太陽の西』の主人公の成長と、この辺りは重なります。
『国境の南、太陽の西』で語り手の「僕」は高校時代、イズミという女の子と付き合っていました。身持が固く、キスしか許しません。「僕」はイズミを裏切り、イズミの従姉である大学生と浮気します。その結果、イズミを傷つけ、イズミの顔からは表情が一切欠けます。この体験から、僕という人間が悪を成しうるということを知ります。
本作では主人公はドン=ジョバンニを演じることで自分のなかのミクロな悪と向き合い、それと対決したと解釈できます。
まりえ探しと夫婦の再生
免色渉の娘と思われるまりえが行方不明になり、その捜索を主人公は試みます。まりえは、免色渉の実の子供と考えられています。
そのまりえ探しの後、私が久しぶりに柚と会った時には、彼女は妊娠7ヶ月でした。このため、私の子供でないことは明らかです。しかし私は柚と夫婦としてやり直し、父親のわからない子供をふたりで育て上げていきます。『国境の南、太陽の西』のような、夫婦の再生が描かれます。
二重メタファーとの戦い
主人公である私は、イデアである騎士団長に導かれて、二重メタファーと戦います。
二重メタファーは有害で、正しい思いを貪り食う存在とされています。心の奥の暗闇に潜む、危険な存在です。
つまるところ人間が無意識に特定の表象に対して抱くバイアスで、どこかにそれがあるために対象を適切に捉え損なってしまいます。
おそらくはこの二重メタファーは有名なオーウェル『1984』の「二重思考」が元ネタです。これは、ある人が相反する2つの理論にあうと、2つの矛盾点を無視しつつ自然のように受け入れてしまうという心理メカニズムです。これが全体主義の起源として捉えられています。なぜならばこれによって、2つの主張の矛盾に伺える不正義への違和感を忘却させてしまうからです。
『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』などに見える通り、全体主義との戦いは春樹のテーマです。
正義の継承
本作は『海辺のカフカ』などのように、世代から世代へと正義が継承される様が描かれます。本作では、雨田具彦(政彦の父)が果たせなかった正義を主人公が継承していき、自身の加害性を意識して、夫婦の関係を再生するという内容になっています。
『国境の南、太陽の西』でも、主人公は過去の不倫によって、自分が悪を成しうる人間だと理解しましたが、本作はドン=ファンを演じることによって、それを意識します。
物語世界
あらすじ
妻の柚との離婚話の後で肖像画家の「私」は自宅を離れ、美大時代の友人の雨田政彦から小田原市郊外にあるアトリエ兼住居を紹介されます。
「私」は、アトリエの屋根裏で『騎士団長殺し』というタイトルの日本画を発見します。これは第二次大戦中にウィーンにいた雨田具彦(政彦の父)が、モーツァルトのオペラ「ドン=ジョヴァンニ」を飛鳥時代にアレンジした奇妙な日本画でした。
私は、ITビジネスで財を成しだ免色渉から肖像画の制作を依頼されます。肖像画に取り掛かったある日の夜、敷地内の祠で鳴る鈴の音色を聞きます。裏の雑木林にある祠は巨大な石で塞がれ、造園業者に撤去してもらいます。そこにはまた石積みの塚があり、塚を掘ると地中から石組みの石室が現れ、中には鈴が納められていました。
やがて肖像画を完成させた私は、免色から食事に招待されます。出掛ける準備をしていた私は居間のソファーで、身長60センチくらいの「騎士団長」を見つけます。彼によると、その正体は思念を実体化できる「イデア」だそうです。祠を塞いでいた石の撤去費用を出してくれた免色にお礼が言いたいという騎士団長を食事に連れていきますが、彼にはその姿は見えません。
食事の後に免色は、過去を打ち明けます。かつて愛した女性が別の男性と結婚するために去っていったこと、別れ際に愛し合って妊娠した彼女は免色の子供かもしれない「まりえ」を夫との子供として育てたこと、間もなく彼女が事故死してまりえは叔母に引き取られたことなどです。私は、絵画教室で講師をしていますが、中学生になった秋川まりえはそこの生徒でした。
まりえの肖像画が出来上がったのち、彼女の叔母から電話がきます。朝家を出てから、まりえは学校に登校せず、携帯も繋がらないそうです。私は騎士団長に相談します。すると土曜日の午前中に電話がくるから、絶対に出るように言います。
次の日の電話の主は政彦で、父親のお見舞いに伊豆の療養所まで誘われました。病室に着いた私は、騎士団長を殺すことを課されます。包丁で刺すとイデアは死んで、私はメタファーの世界に入り込みます。そこを抜けると、あの石室で、私が必死で鈴を鳴らしていると免色が助けに来ます。土曜日の午後に私が具彦の入院先から消えてから3日が過ぎていましたが、まりえは保護されました。
私が柚に会うと、妊娠7ヶ月でした。なので私の子供であるはずがありません。しかし私は再び柚とやり直し、子供を育てます。柚は産まれた娘に「室」と名付けます。 私は営業用の肖像画を描き続けることにします。
私がかつて住んでいた小田原の家は火事で焼け落ちます。絵画「騎士団長殺し」は人の目に触れることもなく、消えたのでした。
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