大江健三郎『懐かしい年への手紙』解説あらすじ

大江健三郎

始めに

始めに

今日は大江健三郎『懐かしい年への手紙』について解説を書いていきます。『燃え上がる緑の木』の前編です。さらに『宙返り』に続きます。

語りの構造、背景知識

等質物語世界の語り手Kへの焦点化

 本作品は等質物語世界の語り手のKに主たる焦点化をはかります。故郷の「谷間の村」に世界の様々な民俗信仰にみられる世界観「永遠の夢の時」を見出すギー兄さん、Kが主人公です。

輪廻と時間論の文化人類学

 「永遠の夢の時」とははるかな昔の 「永遠の夢の時 」に重大な全てが起こり、いま現在の時は、それを繰りかえしているにすぎないという考え方です。「永遠の夢の時」は柳田國男の用語から「懐かしい年」とも言い換えられます。この辺りは文化人類学に着目する『同時代ゲーム』との関係が伺えます。

 輪廻、転生のモチーフは続編『燃え上がる緑の木』でも描かれます。まずT=S=エリオット『荒地』の下敷きとなった文化人類学者フレイザー『金枝篇』が、ネミの森の王殺しの儀式の伝統に対して、自然の輪廻と転生のサイクルを維持するためという解釈を与えています。サリンジャー『ナイン=ストーリーズ』などにもその影響が伺えます。中上健次『千年の愉楽』、三島『豊饒の海』シリーズ(1.2.3.4)、押井守監督『スカイ・クロラ』などにも、モダニズムの余波としての転生モチーフが見えます。

セルフパロディと輪廻

 本作品は自作のセルフパロディ的な著作で、『個人的な体験』『同時代ゲーム』などの代表作執筆の背景について物語ります。また敬愛するギー兄さんとの関係において、ダンテ『神曲』がどれほどかけがえのないものであったかが描かれます。

 本作における中心的なテーマとなっている「永遠の夢の時」=「懐かしい年」とははるかな昔の 「永遠の夢の時 」に重大な全てが起こり、いま現在の時は、それを繰りかえしているにすぎないという考え方だとは先述の通りですが、大江健三郎という作家の軌跡自体が、このような構造を持っていると評価できます。すなわち、「義兄の死」「性暴力の心的外傷」「父との確執」「父としての苦悩」といった、伝記的なバックグラウンドを背景にした切実なテーマを中心に据え、その変奏曲として形式を変えつつ発展、展開されていくのが、大江健三郎文学の特性と言えます。

 本作の輪廻のモチーフは、大江健三郎自身のそのような古典主義者としての、実存主義者としての姿勢を象徴するものとなっています。

サルトルと実存主義

 大江健三郎は、サルトルや実存主義からの影響が顕著で、そこから表現を組み立てて行きました。

 サルトルに関しては、ざっくり話すとハイデガーの実存主義哲学、プラグマティズムや、セリーヌ作品(『夜の果てへの旅』)などからの影響を受け、一個のエージェントがその伝記的な背景などを背景に世界にコミットメントするプロセスに関して、構造的な把握を試みたものです。対自存在(自分自身を対象として意識する存在。志向する対象とする存在)としての人間は、世界の中にある他のエージェントからの相互的な役割期待があり、世界の中で自分自身をデザインしていく自由と責任があることをモデルとして提起しました。

 またサルトルは実存主義において、未来に向かって現在の自己を抜けでて自覚的に自己を創造していくことをもとめ、さらにそれによって社会や世界に対して、そして人類の未来に対して責任を負うアンガージュマン、社会参画を唱えました。

 サルトルやセリーヌの影響を受けつつ、大江健三郎は、作家の人生との関係の中でアートワールドの中の既存のテキストを解釈しつつ、自己の創作にフィードバックし、絶えず自分の表現を未来へ研鑽していくという古典主義者としてのアプローチを身に着けたのでした。

輪廻が強調する宿命

 『燃え上がる緑の木』に続く本作ですが、本作でギー兄さんは死亡し、それに変わる新しいギー兄さんがそちらでは登場します。この義兄の同一性の喪失のモチーフは『取り替え子』と重なります。

 『燃え上がる緑の木』は四国の森の奥の谷間の村を舞台に、「魂のこと」をおこなう新興宗教の集団の勃興から解散までが描かれ、ギー兄さんの二度目の死が描かれます。つまり、死の運命は避けられないのです。

 輪廻の中で繰り返される非業な死が、運命の崇高さの美を感じさせます。

洪水神話のモチーフ、義兄の死

 本作は洪水神話のモチーフが見えます。大江が好んで取り入れるモチーフで『治療塔』シリーズ(1.2)や『洪水はわが魂に及び』などに描かれます。私淑したフォークナーの『野生の棕櫚』にも洪水のモチーフがあります。

 ギー兄さんが「谷間の村」の保守的風土に殺されるというモチーフも多くの作品に共通します。

シリーズについて

 本作は『燃え上がる緑の木』の前編です。さらに『宙返り』に続きます。

 とはいえ、もともと『燃え上がる緑の木』で完成するつもりだったと思われ、同時期にオウム真理教事件が起こったために、そのアンサーとして『宙返り』が付け足されたので、やや蛇足な印象は受けます。

本作でもギー兄さんが死に、続編の 『燃え上がる緑の木』では新しいギー兄さんが現れて、再びその死が繰り返されます。『宙返り』ではギー兄さんの息子が現れ、ギー兄さんや主人公の魂が継承されていくことが描かれています。

物語世界について

あらすじ

 ギー兄さんは、物語の語り手の作家Kより5歳年長で、Kの精神的な師匠です。ギー兄さんは「谷間の村」の高みの「在」の屋敷に住み、彼の家は「テン窪」を含め広大な山林を保有する富裕な家です。

 作家Kとギー兄さんの出会いは、Kが10歳の頃。戦時中の「谷間の村」で女装をして千里眼を行う伝統的役割を負う少年であるギー兄さんは「谷間の村」の伝承に通じており、伝承による魂についての考え方をKに教えます。

 中学生であるギー兄さんは、敗戦により「谷間の村」にやってきた進駐軍の通訳を務め、英詩のアンソロジーを受け取ります。そこからギー兄さんのイェーツへの熱中が始まります。ギー兄さんはまたダンテの勉強を進め、「懐かしい年」へ思いを馳せます。

 Kはギー兄さんから、外国の歴史学に方法論を学び「谷間の村」の神話と歴史を研究するとよい、といわれます。大学でKは大学の懸賞小説に当選し、学生作家としてデビューします。商業デビュー作『死者の奢り』が発表されるとKは文壇のスターとなります。そして高校時代の友人の秋山くんの妹のオユーサンと結婚。

 Kの結婚当時は、60年安保闘争の時代で、Kは若き作家として政治参加をします。ギー兄さんは、オユーサンがKの代理でデモに参加した際、乱闘に巻き込まれて頭に大怪我を負います。そこでギー兄さんを介抱してくれた新劇女優の繁さんとギー兄さんはパートナーになります。

 繁さんに励まされ、ギー兄さんは高等遊民の生活をやめ、郷里の「谷間の村」に「根拠地」を築くことにします。柳田國男の著作に想をえた「美しい村」を「テン窪」に建設します。

 Kに頭部を大きく損傷した子供ヒカリが産まれます。Kは知的障害を負うことになる子供を引き受ける経験を『個人的な体験』に描きます。

 ギー兄さんと繁さんの間で諍いがあり、繁さんが死にます。ギー兄さんは殺人の容疑を認め、刑に服します。Kはその事件と、ギー兄さんが集めてくれていた「谷間の村」の資料をもとに『万延元年のフットボール』を書きます。獄中のギー兄さんと疎遠になり、Kの生活の中心は息子ヒカリになっていきます。出獄したギー兄さんはセイさんの娘のオセッチャンと結婚します。ある時ギー兄さんがKの東京・成城の家を訪ねてきて、「谷間の村」の伝承を基にした『同時代ゲーム』を構想します。

 ギー兄さんは「テン窪」の「美しい村」の跡地を谷川に堰堤を築いて水に沈め、人造湖を作ろうとします。これについて安全を懸念する下流の住民と対立。下流の住民は「谷間の村」の伝承で、堰きとめた水を鉄砲水にして村を全滅させた「オシコメの復古運動」が再現されるのではないかと考えます。

 ギー兄さんと住民の対立は更に激しさを増し、ギー兄さんは襲撃され遺体が人造湖に発見されます。Kがその顛末を聞いて想起する情景は懐かしいイメージで、その循環する「懐かしい年」に向けて手紙を書き続けると決意します。

参考文献

小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』(筑摩書房)

 

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