始めに
始めに
大江健三郎の死を悼み、代表作『万延元年のフットボール』のレビューを書いていきたいと思います。
語りの構造、背景知識
フォークナー、アナール学派、文化人類学の影響
大江健三郎は初期からモダニズム文学者ウィリアム=フォークナー(『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』)の影響が顕著です。コンラッド(『闇の奥』)やT.Sエリオットといったモダニズムの潮流を汲むフォークナー(『アブサロム、アブサロム!』『響きと怒り』)は、たとえばアナール学派が設定したような問題意識から、過去の歴史を物語ろうとします。アナール学派は文化人類学、社会学の分析枠組みを導入し、世相史や社会史の記述を試みたり、ミクロなアクターの視点・現象からの記述やマクロなシステムの構造的考察といったアプローチを試み、従来の歴史学における事件史、人物史のような形の分析に異議申しだてを計りました。
フォークナーの文学は、「意識の流れ」の手法もそうですが、ミクロなアクターの一人称的視点のリアリズムを小説世界に展開し、特定のトポスに焦点を当てることで、単なる中央の政治的アクターによる事実の羅列たる事件史とは異なった、アメリカ民衆史、社会史としての歴史文学をそこに展開しようと試みます。一人称的視点の集積物として歴史を捉えようとする、ジェイムズのプラグマティズム的な発想が見えます。
大江健三郎もまたフレイザー『金枝篇』などの影響の下、本作品で、歴史の中のミクロなアクターや特定のトポスに焦点を当て、そこにおける時間軸の中での実践を記述することで、人間の暴力性、革命のような現象の起こる背景について、その構造的記述、理解を試みようとします。
スポーツと宗教を結ぶ文化人類学
この作品は村でのフットボールを通じて、過去の血と暴力の歴史が呼び起こされていくというのが肝となるわけですが、同様にスポーツに注目したモダニズム作家にバーナード=マラマッドがいます。マラマッドもまた、ヘミングウェイ(『老人と海』)、ジョイス(『ユリシーズ』)といったモダニズムからの影響が顕著な作家で、象徴的な手法を用いる作風が特徴です。野球選手の神話的ドラマ『ナチュラル』を書く前に、マラマッドはJessie weston”From Ritual to Romance”を読んでいます。これはフレイザー『金枝篇』の影響下で書かれたもので、アーサー王神話の成立を考察するものです。そんな『ナチュラル』は野球選手ロイを主人公とし、アーサー王神話、失楽園神話のパロディとなっています。
スポーツと『金枝編』がテーマにする宗教というものはある部分では似ています。それは両者が共に制度であり、その中で人間の合理的、戦略的実践が行われるという点です。スポーツというものは、その中でアクターがフェアに戦略性や合理性を競えるようにという目的に合理的にデザインされた制度です。同様に、宗教というものは特定の現象の背後に「神」などのアクターを想定し、それに対する合理的、戦略的コミュニケーションの帰結として発生するという点で、人間の合理性の副産物です(そしてその制度の中での実践や制度を生み出す心理的戦略的合理性のはたらきを解釈しようとするのが文化人類学、心の哲学)。宗教の中での規範や実践に人間に固有の思考形式の一類系を見出せるのと同様に、スポーツの中での実践にも人間に固有の戦略的、合理的思考を観察することができます。
大江やマラマッドのスポーツへの注目にもそうした部分が手伝っているのではないでしょうか。
象徴的手法
フォークナーやマラマッドの文学同様、この作品でも象徴的手法が採られています。その最大のものはやはり万延元年の一揆と、現代のフットボール活動が結びつけられる部分でしょう。
宗教やスポーツ同様に、一揆もまた法の下でのアクターの合理的、戦略的実践である点で共通します。またスポーツと一揆はともに祝祭的な行為というカテゴリーレベルの共通性を持ちます。そうした思いもよらぬモチーフ同士の組み合わせ、モンタージュによって、現実を違った形で認識、発見できるようになることに喚起される想像力を、大江やフォークナーの象徴的作品は意図しています。
象徴と輪廻と時間
まずT=S=エリオット『荒地』の下敷きとなった文化人類学者フレイザー『金枝篇』が、ネミの森の王殺しの儀式の伝統に対して、自然の輪廻と転生のサイクルを維持するためという解釈を与えています。そこから以降のモダニズム文学において、輪廻や転生の主題が継承されていきました。
サリンジャー『ナイン=ストーリーズ』などにもその影響が伺えます。中上健次『千年の愉楽』、三島『豊饒の海』シリーズ(1.2.3.4)、押井守監督『スカイ・クロラ』などにも、モダニズムの余波としての転生モチーフが見えます。
本作においても、土地の中で一揆という行為が輪廻してフットボールという形で立ち現れ、土地に刻まれた長い歴史を演出します。
兄弟の神話
大江健三郎は義兄の伊丹十三をモデルにした作品が多いですが、本作に現れるS兄さんも伊丹十三の影響が見えます。他方、本作品は弟との関係を描くところが特徴的です。この兄弟の神話としてのデザインは『響きと怒り』『カラマーゾフの兄弟』の影響を窺わせます。
そしてこの弟の鷹四は大江文学で描かれる伊丹十三のようなトリックスターで、つまるところ本作は伊丹十三のキリスト的な受難者としてのイメージをS兄さん、ロキ的なトリックスターとしてのイメージを鷹四に背負わせたものと解釈できます。『懐かしい年への手紙』『キルプの軍団』でも、伊丹の危うい加害性が描かれます。『悪霊』のスタヴローギンさながらの危ういカリスマの鷹四が印象的です。
家族の死の謎
本作は『水死』と同様に、家族の死の謎を探るドラマになっています。
本作で、曽祖父の弟は百年前の万延元年の一揆の指導者です。曽祖父の弟について、鷹四の考えでは保身を図る曽祖父に殺されたとされ、蜜三郎の考えでは曽祖父の手を借りて逃亡したとしています。やがて庄屋の曽祖父が建造した倉屋敷の下に地下倉が発見され、曽祖父の弟は、地下で自己幽閉して明治初頭の第二の一揆を指揮、成功させ、自由民権の流れを見守ったことが判明します。正しいのは密三郎の方でした。
物語世界
あらすじ
根所蜜三郎と妻、菜採子の間に生まれた子供には重篤な障害があり養育施設に預けられています。蜜三郎のたった一人の親しかった友人は異常な姿で縊死します。蜜三郎と菜採子の関係は冷めきっています。そんな家族の谷間の村への帰郷と、そこでのフットーボール活動やスーパーマーケットとの対立、夫婦の絆の再生が描かれます。
蜜三郎の弟鷹四は1960年の安保闘争の学生運動に参加していたものの転向しています。彼はアメリカで故郷の倉屋敷を買い取りたいというスーパーマーケット経営者の朝鮮人(スーパー・マーケットの天皇)に出会い、その取引を進めます。蜜三郎夫婦は、鷹四の提案で、鷹四と星男、桃子とともに郷里の森の谷間の村に帰郷します。
倉屋敷は庄屋の曽祖父が建造したものです。曽祖父の弟は百年前の万延元年の一揆の指導者です。曽祖父の弟について、鷹四の考えでは保身を図る曽祖父に殺されたとされ、蜜三郎の考えでは曽祖父の手を借りて逃亡したとしています。
故郷の実家ではすでに父母は亡くなり、兄弟の兄・S兄さんは戦後朝鮮人部落の襲撃で死んでいます。兄弟の妹は知的障害があり、父母の死後に伯父の家に貰われ、そこで自殺します。倉屋敷は小作人の女ジン夫婦が管理します。
S兄さんの最後について、鷹四は朝鮮人部落襲撃時のS兄さんの英雄的姿を覚えていますが、蜜三郎は、S兄さんは騒動の調停のため、日本人の側から引き渡され殺された犠牲の山羊だったとしています。
谷間の村はスーパー・マーケットの影響下にあります。そんな中鷹四は村の青年たちに信頼され、鷹四は青年たちを訓練指導するフットボール・チームを結成します。妻の菜採子も蜜三郎から離れ、鷹四らフットボール・チームと活動を共にします。鷹四はチームに万延元年の一揆の様子を伝え、チームに暴力的なムードが高まります。
正月前後に大雪が降り、谷間の村の通信や交通が途絶されると、チームを中心にして村全体によるスーパー・マーケットの略奪が起きます。この暴動は伝承の御霊信仰の念仏踊りに鼓舞されたものでした。
鷹四は、菜採子と公然と姦淫するものの、村の娘を強姦殺人して青年たちの信奉を失い、猟銃で頭を撃ち抜いて自殺します。自殺の直前、鷹四は蜜三郎に、過去に自殺した知的障害のあった妹を言いくるめて近親相姦していたことを告白します。鷹四の破滅的な暴力の傾向は、自己処罰の感情からきていました。
雪が止み、交通が復活した村にスーパー・マーケットの天皇が倉屋敷の移設解体のために現れ、スーパー・マーケットの略奪は不問に。倉屋敷の下に地下倉が発見され、曽祖父の弟は、地下で明治初頭の第二の一揆を指揮、成功させ、自由民権の流れを見守ったことが判明します。
夫婦は和解する。養護施設から子供を引き取り、菜採子が受胎している鷹四の子供を産み育てることを決意します。蜜三郎はアフリカでの通訳の仕事を引き受けます。
総評
大江健三郎が新たなステージに登った時期の作品
大江健三郎は『万延元年のフットボール』『懐かしい年への手紙』『僕が本当に若かったころ』『取り替え子』などを経て段階的に成長を遂げた作家ですが、これもそうした転換点となる傑作の一つです。
関連作品、関連おすすめ作品
・村上春樹『1973年のピンボール』:象徴的手法。
参考文献
・福井憲彦『歴史学入門』(岩波書店.2019)
・Philip Davis”Bernard Malamud”
小谷野敦『江藤淳と大江健三郎』(筑摩書房)
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