三島由紀夫『奔馬』解説あらすじ

三島由紀夫

始めに

始めに

 最近『BORUTO』(『NARUTO』の続編)で「逆だったかもしれねえ」が起こり、ナルトスに衝撃が走っています。毎朝楽しみに観ていたアニメもそのうち二期が始まるようです。『NARUTO』といえば「転生」がテーマです。そこで、今日は「転生」をテーマにする三島由紀夫『奔馬』について『NARUTO 』ファンの視点からレビューを書いていきます。

語りの構造、背景知識

転生(『浜松中納言物語』)のモチーフ

 三島由紀夫は転生の主題に取り憑かれておりました。三島のフォロワーのモダニスト・中上健次『千年の愉楽』にも、転生のモチーフは見えます。サリンジャー『ナイン=ストーリーズにも転生のテーマはあります。この主題が、文学者や人の心を捉えるのはなぜでしょうか。

 そもそも本作品は『浜松中納言物語』と言う転生をモチーフにする古典文学を下敷きにしており、四部作(『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』)で転生者をテーマとする作品になっています。そして仏教思想が背景になっています。以下では、この主題が喚起する想像力について考えていきます。

象徴的手法としての転生

 三島由紀夫はモダニストとしてはあまり秀でたものではなく、どちらかというと新古典主義の枠でも私淑したラディゲ(『ドルジェル伯の舞踏会』)、コクトー(『恐るべき子供たち』)のようなクラシックなスタイルの娯楽小説、戯曲に秀でた守旧的な古典主義者でしたが、とはいえモダニストでもあります。T=S=エリオットやジョイス(『ユリシーズ』)、プルースト(『失われた時を求めて』)からの影響は顕著です。

 エリオット『荒地』は当時のブルジョワ社会の頽落の象徴として聖杯の失われた時代の荒地を、ジョイス『ユリシーズ』は、現代の冴えない中年レオポルド=ブルームの物語をホメロス『オデュッセイア』の象徴として解釈、再現しています。ここに読者が想像力を喚起されるのは、抽象的なレベルの共通性によって二つの異なる事例が特定の共通のカテゴリーの中に発見されて示される機知へ感じる快楽ではないでしょうか。我々が普段の学習でも経験するような、異なる事象が構造的に捉えられることへの快感ではないでしょうか。

 三島由紀夫もこうしたモダニズムの象徴的な手法に影響され、「転生」の主題によって異なる時間を生きる主人公の四部作のドラマをそれぞれの物語の象徴として捉える姿勢が見えます。

宿命論、自由の儚さの再現。崇高さ

 三島由紀夫は郡虎彦経由で、ニーチェから顕著な影響を受けました。ニーチェといえば永劫回帰という、宿命論的な時間論の中に神秘性を見出す発想が特徴で、まあ現代ではこのような単一の時点(目的)を目指し直線的に展開されるような意味での決定論(宿命論)は物理学の方面では否定的な見解が強いです。けれどもラプラスの悪魔に惹かれたヴォネガット(『スローターハウス5』)のように、やはりこのような宿命論は人の心を捉えるものがあります。

 この辺りのことを書くと収拾がつかなくなるのですが、けれどもデカルトが考えたような素朴な自由意志は現代では受けが悪く、認知科学、自然主義哲学の方面では、両立論(自由意志と決定論が両立する)や決定論(自由意志は存在しない)が主流です。両立論というのは直感的にわかりずらいと思いますが、古くはホッブス、スピノザ、現代思想ではドゥルーズなどで、自由意志は捉え方によってはあるとも言えるしないとも言える、という立場です。例えば両立論のデネットは環境の中に置かれたエージェントはその振る舞い、信念の形成に環境や内的メカニズムから影響される(決定論)が、主体性を持った一個のエージェントの自由はその態様の観察から一定程度存在する(自由意志)と言える、くらいに捉えます。村上春樹(『世界の終りとハードボイルド=ワンダーランド』)やヴォネガット(『スローターハウス5』)、サリンジャーの文学作品などがそうですが、宿命としての決定された過去が原因で心的外傷があってそれに決定づけられる形でエージェントの自律、自由が損耗している状態というのは、我々もまあまあ直感的に理解しやすいと思います。

 三島由紀夫が宿命、運命悲劇として「転生」の中での「宿命」のドラマを描くとき、そこに感じ取られるのは、自然・災害・病気・寿命・死といった諸々の環境や自然法則を目の前にして我々がエージェントの自由意志の矮小さを思い知らされるような、そんな崇高さかも知れません。歴史という圧倒的なダイナミズムの前で、我々が生きるわずかな時間が思いやられる時に感じる崇高さであるのかも知れません。

リハーサル、「逆だったかもしれねえ」の再現

 伊藤計劃『ハーモニー』『虐殺器官』に関する記事で触れましたが、人間は高次の表象能力をもとにシミュレーションを組み立て、公共圏における振る舞いや信念を調整、洗練させていきます。人間はたえざる内的リハーサルの中で、人間関係の中での責任主体としての姿勢をあらためていきます。

 そんな我々ですが例えばシェイクスピア『ロミオとジュリエット』(山田風太郎『甲賀忍法帖』の元ネタでもあります)に我々が感じる美的経験というのは、そこで「ちょっとのボタンの掛け違いで大きく結果が変わっていたかも知れない」という作中の事実のうちに、我々が日常において経験する「もしあの時〜していたら/しなかったら〜だったかも知れない」という行為のリハーサルが発見されることに由来するのではないでしょうか。

 もし、『NARUTO』においてオビトがカカシに与えた「仲間を大切にしない奴は、それ以上のクズだ」という言葉がなかったら、カカシはどうなっていたでしょうか。ナルトにイルカ先生がおらず、「どの道ろくなやつじゃねえんだ」と卑の意志の犠牲の犠牲になっていたら、ナルトは長門やオビト、サスケの責任を問いただす立場にいられたでしょうか。そんな「逆だったかも知れねえ」のうちに、我々は日常のリハーサルを見出せます。『NARUTO』はそうしたドラマを「転生」のモチーフと絡めて展開しています。

 川端康成がノーベル文学賞を取ったのち、三島と川端は自殺しましたが、もしノーベル文学賞を取ったのが三島由紀夫だったらどうだったでしょうか。承認欲求を拗らせてノーベル賞に縋るより生きていけなかった三島は生き残り、かつての愛弟子からの呪詛の自殺で苛まれ続ける現実は川端にはなく、それゆえ自殺することもなかったかも知れません。

 三島由紀夫が転生についての物語を書くとき、そこに我々が感じるのはちょっとボタンがかけ違っていれば同じエージェントでも別の現在があったかも知れないという作中の事実に見出せる、我々の日常のリハーサルではないでしょうか。

異質物語世界の語り、クーデター文学

 まあ転生についてはそんなところで。本作は異質物語世界の語りを導入しています。いわゆる三人称視点です。

 また「クーデター」を描く作品で、村上龍(『愛と幻想のファシズム』)、押井守への影響が伺えます。龍はさらに大友克洋(『AKIRA』)への影響が顕著です。押井守、大友克洋は岸影様への影響が顕著で、従来の忍者物語だと体制側の忍びは組織の非情さを体現する存在で、自由や正義はどちらかというと抜け忍側にありますが、『NARUTO』ではクーデターを起こす側の方が悪役なのが印象的です。

物語世界

あらすじ

 『春の雪』で清顕が死んでから18年。彼の親友だった本多繁邦は、大阪控訴裁判所判事になっていました。6月16日、本多は大神神社の剣道試合で、一人の若者に目がとまります。彼は飯沼勲という名で、かつて清顕付きの書生だった飯沼茂之の息子です。

 試合後、本多は許可を得て、禰宜の案内で禁足地の三輪山山頂の磐座へ参拝します。禁足地の山中、三光の滝で勲に出くわし、彼の脇腹に清顕と同じく3つの黒子があるのを発見します…。

 

総評

こんなくだらない作品を今更責めて何になる?

 三島由紀夫は正直、戯曲、娯楽小説、評論は良いものの、モダニストとしては川端、中上健次、大江健三郎ほど筋がよくなく、私生活に影が差す60年代からは得意だったジャンルも破綻が目立ちます。これも橋本忍監督『幻の湖』よりはマシですが、かなり荒唐無稽で大味です。

 三島由紀夫では私は家庭小説(『潮騒』『宴のあと』『永すぎた春』)、戯曲(『サド侯爵夫人』)やごく初期の『仮面の告白』などを推します。

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参考文献

戸田山和久『哲学入門

木島泰三『自由意志の向こう側』

『神経美学: 美と芸術の脳科学』

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